big fan of 2000年代Hiphop

持っているCDと雑誌を管理するための記録ブログです。

調べ学習「Kanye west(2004年1stアルバム発表以前まで)」

 今までは一応はHiphopというカルチャーの歴史や好きなアーティストの来歴等の情報について雑誌・本などで読んではいたのですが、いかんせん漫然と拾い読みスタイルだったため、体系的な知識が得られず、事柄の一つずつを繋げて理解することが苦手だったのですが、この度ブログを始めたのをよい機会に、改めて自分が大好きなカルチャー・音楽を学び直そうと思いました。

 そこで、自分が調べたことをアウトプットするスタイルが一番身に付きそうなので調べ学習の体でちょこちょこブログにUpしようと思います。その都度気になったことを取り上げるため、あっちへ行ったりこっちへ行ったりすると思いますが、ご容赦ください。

まずは初めてHiphopのプロドューサーという存在を知るきっかけとなったKanye westについて、彼が自身名義の1stアルバムをリリースする以前の流れを調べてみました。ある程度私の主観が入りますのでそこはご容赦を。

 

 Kanye westアメリカ中西部の最大都市、イリノイ州シカゴ出身で、小学3年の頃にラップを始める。その後自分でラップをするために中学1年でコンピューターを用いてビート制作をスタートする。その後同じくシカゴ出身のラッパー、CommonのメインプロデューサーNo I.Dの下でさらにプロダクションについて学ぶ。後年彼のシグニチャサウンドになるネタの早回しについてはNo I.Dがやっているのをみて学んだとのこと。こうしてNo I.Dの下で活動していた成果は同じくシカゴの女性MCドュオ、Infamous syndicate(メンバーの一人はシカゴのブルースミュージシャン・Buddy guyの娘で後にLudacrisDTPに加入するShawnna)の99年作のアルバムにおいて3曲制作という形で表れている。

 その後、どういう経緯かは不明だがBad boyにて活躍していたDeric Angelettieによるレーベル、Crazy Cat Catalogueに所属するようになり、ここからAngelettieとの共作も含めFoxy brown、Harlem worldの作品に参加し、プロデューサーとしての活動が活発化する。

 途中、Crazy Cat Catalogueは解散するも、彼個人としての仕事は決して多くはないもののあり、その中でも彼の大ブレイクにいたる最初の足掛かりとされるRoc-A-FellaのBeanie Sigelのシングル曲「The truth」を制作し、ここからRocとのつながりが生まれ、大ボスJay-Zの00年作「The dynasty」中の"This can't Be life」をプロデュース。この曲では声ネタの早回しが聴かれ、この手法やKanyeの素養をおそらくJay-Zは高く評価し、次作の01年作「The blueprint」ではメインにKanyeとJust Blazeを抜擢し、このチャンスにKanyeは特大ホームラン級の結果で応えてみせ、一躍トレンドの中心へと躍り出ることに成功。これ以降は様々なアーティストを手掛けてみせ、遂にはかねてから望んでいたラッパーとしてのポテンシャルを見せつけるべく、2004年2月「The college dropout」を発表、そしてここから作風は大きく様変わりするものの、常にHiphopシーンに欠かせない重要人物として同業者・Hiphopファンの双方に多大な影響を及ぼし続けている。

 

「泣き」のHiphop

 あくまで軽口の類ですが、BLAST誌の最終号のStak vs NumataのコーナーにおいてStak氏が最後に「ヒップホップに涙はなしだぜ」と発言しており、雰囲気的に冗談半分だと思いますが、基本的にはHiphop、それも創成期から、または東海岸のものを好むリスナーであればこの価値観に多くが賛同するのではないでしょうか?やはりHiphopにはbattleやcompetitionといった要素が大きな位置を占めており、一般的にはその土俵で勝ち上がってきた者が評価されるわけで、「強さ」を過剰に誇示することはあっても「弱さ」は少なくとも勝ち上がり、ある程度の地位を手に入れるまでは決して見せず、ようやく一端のラッパーとしてアルバムを出せるレベルにきて初めて、勝者の立場から振り返って苦痛や悲しみの吐露といった「弱さ・繊細さ」を出せるに至ると考えています。勿論商業的にもアルバムのバラエティーのためにそうしたしんみり系が必要です。

 こうした「泣き」の曲は90年代にもありますが、00年代にはシンガーがフックを担う曲がトレンドとして爆発的に増え、なおかつチャートでもよいアクションを示し、まさに00年代はこうした曲の最盛期であったと思います。

 そして、そうした曲が私の琴線に触れるに至り00年代メインストリームHiphopR&Bにのめり込み、今現在も愛聴しています。

そこで今回は、数多ある私的に「泣き」を感じる曲を1曲紹介します。また、これからもこのタイプを紹介することが多くなると思います。

 今回の曲はPaul wallの2005年作のアルバム「People's champ」のラストを飾る"Just paul wall"です。

この曲でPaul wallは(おそらく)ここに至るまでの生い立ちや苦痛、もがきを描写していますが、しかしそこには希望や決意といった力強さもみられ、大らかで暖かな印象を受けます。そうした印象を与える大きな要因はサウンドで、ここではEarl Klughというギタリストの”Long ago and far away"という曲を拝借して、私的にはサンプルというより弾きなおしたように聴こえるのですが、曲の冒頭と後半で弾かれる、切なさと暖かさを伏せ持つ元曲の最も情感の豊かなギターのメロディを贅沢にループし、さらに曲の始まりと終わりにレコードリスニング特有のパチパチノイズを配することで曲により一層の暖かみとレトロ感を加味して2005年版ソウル・ミュージックと呼べるような仕上がりになっています。

 こんな感じでこれからも好きな曲を挙げていこうと思います。

 

 

タラレバ

皆さんも音楽に限らず、「もしも~だったらなぁ……。」ということってありますよね?私にはこと音楽に限ってももういくらでもあるのですが、今回はそんなタラレバについてです。

Scratch magazine No,4(2005年春頃)における記事でLudacrisは将来やりたいProとしてDr Dreを挙げており、さらにこのことについては常々公言しており、おそらく実現するだろうとまで言っているのです。しかしながら2021年現在までDreとLudaによる正規に発表された曲は残念ながらありません。唯一私が知っている範囲では「Detox」のマテリアルとしてリークされた"OG's theme"においてLudaが作詞・スピットしているのみで、それ以外の両者の直接の絡みを知りません。

 ここからがタラレバなんですけど、私は心底DreとLudaにがっつり組んでみてほしかったです。私は2004~2009年のDreの作風が大好きなのですが、この時期であればLudaのアグレッシブで迫力のある声とフロウはDreの重厚なサウンドにも決して喰われることはなく、相性はバッチリだったと思います。

 LudaはStand upやGet backからも窺えるようにクラブバンガー系は勿論ハマるだろうし、この頃のDreのシリアス・哀愁路線におけるキープレイヤーだったMark batsonによるキーボードを取り入れた切ない曲も”Growing pains”や”Runaway love”同様素晴らしいものが出来たでしょう。

 同時期にBusta rhymesがアルバム「The Big Bang」においてダークでハードボイルドな曲や切ない曲調でDreとBustaの両者にとって新たな地平を築いたように、LudaにはBustaに勝るとも劣らない、Dreのビートを乗りこなすポテンシャルが備わっていたと思うだけに、がっつりと組んでいたら間違いなくDre・Ludaの双方に何らかのマジックが生まれていただろうなぁと今でも空想します。おそらくXzibitの「X」クラスのバンガーが生まれていたのでは?と感じます。